今回のブックレビューは、
*** 『谷口清超新書文集9 愛情教室』    谷口清超(著) ***
*** 『<シリーズ 母親教室と私 5>
     明るい家庭と楽しい子育て ―観方を変えて―』
                 生長の家白鳩会中央部(編) ***

です。内容を一部抜粋してご紹介します♪♪




谷口清超新書文集9 愛情教室

著者:谷口清超

真に勇気あるもの(p.279~280)

 しかし彼は受持ちの主治医から、「自分は妻を自動車事故でなくしたが、 今ではたとい彼女が車椅子に乗ってでもいい、私を迎えてくれることをどんなに望んでいることか」ときかされ、彼は自分が当初から妻にあまりにも「完全無欠」をのぞんでいたあやまりを知り、妻の待っている「新家庭」へと帰って行くのです。それまでの彼は他人が自分達夫婦を見る目を気にしていましたが、それからはその“目”をそのまま受けようと決心するのであります。ここで映画は終っておりますが、現実の人生はそれからが、それ以前にも増して重大であります。彼らの人生が決して「きれいごと」に終始するとは思われませんし、その青年と少女との選んだ道が唯一つの道でもなんでもありません。しかし少なくとも彼らはこの事件を通して「受ける心」の若干を学んだにちがいないのです。愛するとは単に理想を描いたり、高所から相手に「与え」たりすることだけではありません。またこの夫のように「傲慢に受ける」ことでもないことはもちろんであります。“そのままの心”がそのまま生活にあらわれて、与えることと受けることとが自然法爾に行なわれるとき、神の国の秩序が現実に顕現して、完全なる自由の世界があらわれるのであります。「奇跡」と称するものは、そのようなとき出現します。人間は本来完全であるから、それを蔽いかくす絶対的な力はどこにもないからであります。ただひとつ、自分自身が何ものかにひっかかって、自分で自分の全能を限定してしまうだけであります。その自己限定は、もはや“そのままの愛”にはあり得ないのであるから、われわれの心が本来の姿に立ちかえるとき、自分も相手もなんらの自己犠牲をも必要としないで「神の国」を実現することができるのです。われわれはそれを、現実に、各自の生活の場で、具体的に実現しなければならない。われわれにはそれができる、なぜなら「人間は神の子」であり、すでにもう完全無欠なる存在であるからです。それを“相手”に求めるのではなく、“自己”においてなすということが大切であります。



<シリーズ 母親教室と私 5>
明るい家庭と楽しい子育て ―観方を変えて―


編集:生長の家白鳩会中央部

母親教室は心の宝 (p.22~23)

 初めての母親教室の日、いただいた学習ノートを開いてみると、一頁目に「児童教育に関する神示」(本書冒頭参照)が載っていました。その神示を読んだ時、「ここに書かれている、取り越し苦労をする母親とは私のことだ」と思いました。
 子供を自分の所有物のように思い込み、私が何とかしなければ大変なことになると、自分の心をがんじがらめに縛りつけ、自分を苦しめ、結果的に、小さな息子も苦しめていたのではないかと、思いました。
「人間力で子供を生かし得ると思うなら終日終夜起きて子供の番をしておれ。それは出来なかろう。出来ない間に子供を生かしているのは神の力である」という、この神示の最後の方の言葉を読んだ時、自分自身がとても楽になるのがわかりました。この真理を信じてゆくか、ゆかないかで、この先、私の生き方は大きく変わるのではないかと思いました。
 母親教室に参加させていただいて、自分が変わったと思う点の一つに、一日一日を意識して生活するようになったことがあります。夫婦仲良く、子供も健康で、姑も元気で、今日も数えきれないほどの幸せをいただいたなあと感謝しながら、その一日を終えることができます。生長の家の「感謝する生活」に出あうまでは、何事につけても、あらを探し、それに囚われ、自分と周囲を苦しめていました。
 五年前、私は生まれ育った家と嫁いだ家の生活様式の違いや、家族関係に大いに悩み、医者の薬に頼らなければ眠ることもできないほど、心と体を病んでいました。自分を取り巻く環境が、自分の都合のいいように変わってくれることばかりを願っていました。
 母親教室での、夫婦仲良くすること、良いコトバを使うこと、常に光明思想を持つことなどの多くの学びは、周囲を変えようと思う前に、まず自分が変わることの大切さを私に教えてくれました。