今回のブックレビューは、
*** 『正法眼蔵を読む 下巻』        谷口清超(著) ***
*** 『生長の家ヒューマン・ドキュメント選 心で開いた繁栄の道』 
                      日本教文社(編) ***

です。内容を一部抜粋してご紹介します♪♪




正法眼蔵を読む 下巻

著者:谷口清超

皆愛楽 (p.476~477)

 釈尊はこのように説かれたのであった。
「たとえば優曇華の花が美しく咲く如く、一切のものは皆愛楽するのである」と。
 ここに言われている「一切」とは、今この世に姿を現している仏祖であり、今はもうこの世には姿を現しておられない仏祖は勿論すべてのものであり、草木昆虫にいたるまでの全てのものが、この愛楽の光に包まれている、これが優曇華なる実相の展開であるということである。皆愛楽、即ち皆が愛楽するとは、全てのものが夫々の個性を発揮して実相をあらわし、愛し、楽しみ、活發々として生き抜いているということである。
 それ故、一切はみな「優曇華」であり、その展開である。従って、この「優曇華」が、現実の世にあらわれるのはまことに難しいのである。それを「優曇華の咲くのはごくまれである」と表現するのである。(三千年に一回ともいう)
 ところで釈尊がこの優曇華を手に持って瞬目されたというが、これはまさに成道の時、樹下に打坐して明星に「眼睛を換却したとき」の様子を示されたものである。即ちこのとき「眼睛」なる大法を会得された、そのことを暗示している。それを見て、迦葉尊者は破顔微笑した。顔面をほころばせて、拈華される釈尊のお顔とピッタリと一つになった。そこで以心伝心、「正法眼蔵を汝に附嘱す」といわれ、大法が継承されたのである。如来が瞬目されるとき、われらの眼睛も打失する、即ち肉眼のウロコが脱落して、如来眼となる眼睛が開眼するのである。この如来瞬目、これがすなわち拈華である。かくて「優曇華」の真実相がおのずから開現するのである。



生長の家ヒューマン・ドキュメント選 心で開いた繁栄の道

編集:日本教文社

作文 (p.12~13)

「経営難という問題を必死に掴んで、現象ばかりに捉われている自分に気づいたんです。従業員に対しても、自分が雇ってやっているというような驕りがあったことや、資本金を返せと言った従業員を恨んでいたことは、経営の失敗の責任を従業員に転嫁して、自分は責任を逃れたいという気持ちがあったからなんです」
 自分のことを考える前に、まず従業員を思いやることが先決だと思いなおし、会社の負債は全部自分が引き受け、従業員には一切責任を問わないようにしようと決めた。そして、会社のことを自分がどうこうしようと考えるのはやめ、神様にお任せしようという気持ちになった。
 その後、従業員は皆、他の職を求めて去って行ったが、辞める際にトラブルが少しも起きなかったことに感謝した。借金の三千万円は残ったままだが、夫妻は「神様に守られているから、もう不安感がなくなっていた」と口を揃える。たまたま顧問税理士が借金のことを心配して訪ねてきた時も、「何とかなりますよ」と笑って答えて呆れさせた。
 かつての寿さんにはなかった明るさを、二人の子ども達も感じ取っていた。ある日、寿さんは、当時、中学生だった次男の善信さんの作文を目にした。そこには、「お父さんは練成会に行ってからすごく変わった」と書かれていた。
「今まで子どもに対して命令的で、“だまれ”とか“うるさい”で終わるような親で、子どもと話をする機会もなかった。ところがその作文を見たとき、とても嬉しくてね。練成会で自分は本当に変わったんだなと実感したんです」
 仕事が少なくなった分、その時間を生長の家の勉強にあてようと思い、宇治別格本山の練成会には暇を見つけて、たとえ一日だけでも毎月参加した。「今を一所懸命生きていれば必ず道は開かれる」。そう信じて疑わなかった。