今回のブックレビューは、
*** 『何をどう信ずるか』          谷口清超(著) ***
*** 『神の国はどこにあるか』        谷口清超(著) ***

です。内容を一部抜粋してご紹介します♪♪




何をどう信ずるか

著者:谷口清超

実相を観よ (p.80~82)

神の国は平和であり、大調和であり、しかも自給自足圏といった限定された領域ではなく、渾然として一体なる完全円満大調和、不死不滅、自給他足、他給自足の世界だから、これに反する行動は断乎として拒否すべきである。それは何も色々な情報をあさり尽し、読みこなし尽さなければ出来ないことではない。
 即ち当り前の生活に徹し、善を行い、悪をしなかったら、それでよいのである。一体ある国民が別の国に侵略することが善いことか悪いことか。どんなにある国(A)に別の国(B)よりもすぐれた能力があり、国民の才能が開発され、文化が進歩しているとしても、それ故にAがBに侵入するならば、それは悪である。そうでなければ、人間は凡ゆる動物の世界にズカズカと侵入して、それを破壊してもよいことになるかも知れぬが、それでは人間も結局死に到る他はなくなるのだ。
 又、その逆に貧乏人は金持の財を奪ってもよい――となると、大変な暴動が発生し、貧しい人々は富者の家財を略奪して当然と心得るであろう。略奪とまで行かなくとも、当然の如き物乞い行動が横行したり、富者を減らすところの税金制度や資本家を悪とし労働者を善とするマルクス理論の憲法をもつ強権国家が形成され、やがてその国家自身が貧窮と衰退に陥るのである。
 何故なら富をにくみ貧乏を神聖視するからだ。この現象界には、因果律によって、播いた種子が生えてくるのである。善をなせば善果を生じ、悪をなせば悪果を生む。神の国がどんなに豊かであるかを知らぬ者は、真の富をわがものとすることは出来ない。戦争やテロ行為をよしとする者は、そのような修羅世界を実現する。それ故吾々は、このような略奪や闘争のない世界、完全に調和し、無限に供給し、無限供給されるところの無相にして無限相の実在界を心を鎮めて観る行為、即ち「神想観」を怠ってはならないのである。
 そうすれば必ず、ある時期を経て、現象界にそれが現成する。それは必然的に現れ出るのであり、「天に成る如く、地にも成る」のである。
 しかもこの「神想観」は日に三十分か一時間でよいが、永く続けて年月を経なければならない。それを無限億劫をかけて行うのが実は人生である。勿論この肉体の一生ではなく、無限世に於いて実相を観じ続けるのが本当だ。すると次々によきものが、愛や智慧があらわれて来て、人生の悦びはさらに増大する。与えれば与え返され、悦べば悦びが増幅し、全宇宙にこだまするのである。これが来るべき、わが人生である。



神の国はどこにあるか

著者:谷口清超

あたり前を楽しむ (p.99~101)

生長の家の信仰は、『自然流通の神示』(昭和八年一月二十五日)にある如く、『「生長の家」は奇蹟を見せるところではない。「生長の家」は奇蹟を無くするところである。人間が健康になるのが何が奇蹟であるか。人間は本来健康なのであるから、健康になるのは自然であって奇蹟ではない。「生長の家」はすべての者に真理を悟らしめ、異常現象を無くし、当り前の人間に人類を帰らしめ、当り前のままで其の儘で喜べる人間にならしめる処である。あらゆる人間の不幸は、当り前で喜べない為に起るものであることを知れ。』
 とあることを確認しなくてはならない。だから当り前に生活することを「喜ぶ」のである。そして楽しむのだ。当り前に、花が咲いたらそれを見て人々は「美しい」とさんたんし、喜ぶだろう。カンカラ一つを拾ったら、「これで日本は(この町は)一つきれいになった」と喜べばよいのである。ところがカンカラを一つ投げ捨てたら、その町は、そして日本国土はそれだけ汚れたことになる。だから、一つでも、二つでも拾う。それができないのは、体裁ぶって、「大きな仕事でないと恥ずかしい」などと思い上がるからだ。それを当り前と思う人は、やはり見えや体裁に引っかかり、常識に従うのを善いと心得ているだけのことである。だからテレビの中でウソをつく人々が沢山出て来ると、自分もウソをつくマネをする。それが相手をよろこばしたり安心させるという言い訳をしたりして、自己をすらごまかすのである。
 しかしどの宗教にウソをすすめ、ウソを美化している教えがあるか。もしあったら、それはニセモノだ。神や仏がウソをつくと思いちがえているからである。神や仏はそうであっても、人間は神仏とちがうから仕方ない――そう言うのが今までの通俗の信仰だった。キリストや釈迦だけが選別された神の子や仏であって、吾々人間は罪人だ――というこの既成的信仰を根本的に打ち破り、「神の子・人間・不生不死・生不滅」をそのまま信じて、当り前に喜び、楽しみ、遊戯三昧の生活をするのが「生長の家」である。
 それは決してむつかしいことではない。今・此処を生き、この身このまま神の子を信じ、神のみ心を生き、今やるべきことを、今やりましょうという「そのままの生活」に徹するのが「生長の家」である。