真理への道はただひとつ
「人間は神の子だ」ということである

千葉の灯(せんようのともしび)2026年11月

善一元の神への信仰を続けよう

教化部長 小池 聖明
教化部長 小池 聖明 『飛鳥讃歌』の主人公の尼僧「有彩」は、若き日に自分のお腹に宿した子供を生まなかったという大きな失敗をします。彼女はその罪を償うために出家し、自分が殺めた息子に「有児」と名づけて和解します。そして、煩悩を放ち去って仏に帰依すること、それは全ての人は自他一体の存在であるということを悟るのです。この長編詩には、人生は舞台であるからたとえつらい経験や不幸や失敗があっても、それが魂の訓練になっていることが素晴らしいのである、というような思いが込められています。

 フランスの小説・レミゼラブルで、ジャンバルジャンという主人公の男性は、極貧からパン一個を盗み19年も服役した後、旅の途中でミリエルという司祭の家に泊まるのですが「銀の食器」盗み、翌日警察につかまってしまいます。その時に司祭は、「銀の食器はあなたにあげたものですよ。銀の燭台もあげるつもりだったのになぜ持っていかなかったのですか」と言い、さらに「わが兄弟よ、あなたはもう悪人ではない。善人に生まれ変わったのだよ。あなたの魂のためにわたしはこれを授ける」と語りかけるのです。その司祭のコトバに“良心”を引き出されたバルジャンはその後、善行を施す人に変化をしていくというお話です。

 この2つの話に共通するのは、「人生はいつからでもやりなおせることや、愛や許しが大切であること、人生最大の失敗をしても、人は本来“善”であるから、どんな人にも“希望の種”があるということではないでしょうか。

 9月に様々な素晴らしい体験をお聞きしました。悪性腫瘍が治ったという茨城の相愛会員さんは、医師からは、「あなたは病人の顔をしていません」と言われたそうです。私は神である、仏であると毎日自分に言い聞かせ、何十年も日記に感謝のコトバを書き続けておられるそうです。  
 ある茨城の白鳩会員さんは病気をきっかけに仕事を退職した時から日々神想観に励み、『日時計日記』には自分の“希望”を書き続けるようになったら、嬉しくてしょうがないというお話もお聞きしました。

 私達の人生にも色々な局面があり、時には不幸と見える体験もすることもあります。
 しかし、一見悪と見えるのは、実相顕現の過程で善が少ししか表現されていない状態であるから、私達は本来の善一元の姿を自分の想念でいくらでも表現できるのです。

 イソップの童話に「キツネとブドウ」というお話があります。お腹がすいたキツネが、ブドウの木を見つけましたが、高い枝にぶらさがっている美味しそうなブドウは、いくらジャンプしてもとることができません。しまいには、「あれはすっぱいブドウだからまずいに違いない」と自分に言い訳をして帰ってしまうというお話です。
 おいしそうなブドウは“善”、それを食べられない状態は“悪”であり、目の前には善悪が混在している世界が展開しています。でもそのバッドエンドをハッピーエンドに変えることはできるか、千葉の中高生一日見真会で参加者に問いかけました。すると、ある高校生が「キツネの去った後、ブドウを食べることができた動物が、キツネさんにブドウを届けることができた」という話を紹介してくれました。
 実は、このイソップ童話は総裁先生が『足元から平和を』でご紹介下さっています。
(同書238頁~「善は必ず現われる」の項目)
 独りでブドウをとれなければ、仲間を連れてくることができる、ブドウ以外の野菜や果物で手に入るものをありがたく感謝して食べるなどの方法をとるなど、生長の家の生き方は「物事の光明面を見る」ことであるとお示し下さいました。

 私達の光明化運動は、一見、悪と見える状態があっても、そこに何か善一元へ向かう可能性がないか、光明面を探して、表現していくところに使命があるのだと思います。善一元の神への信仰を力強く進めてまいりましょう。どうぞよろしくお願いいたします。